「ちょいな人々」

偏読老人の読書ノート
03 /28 2024

茨木のり子さんの詩に「マザーテレサの瞳」(「倚りかからず」筑摩書房 所収)という詩がある。その後半部分を紹介すると

 

外科手術の必要な者に 

 ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は 

 知らないのだ

瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの 

慰藉の意味を

死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って 

手を握りつづけることの意味を

――言葉が多すぎます 

といって1997年 

 その人は去った>


こういう詩に出会うと自分はなんと薄っぺらで無為の日々を過ごして来たのだろうと深く反省してしまう。反省したからといって何をするわけでもないのだが。

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「ちょいな人々」(萩原浩)は、どこにでもいそうな人のちょっとした日常の変化をユーモラスに描いた七編の短編集。私には七編目の「くたばれ、タイガース」の結婚を許可してもらうために恋人の家を訪問した「トラキチ」の男性と、相手の娘のジャイアンツファンの父親とのやりとりが上質な漫才を見ているようで面白かった。


 <俺ってちょいワル!?

社内女性のほめ言葉に有頂天になる中年課長はじめ、おっちょこちょいだけど愛すべき人たちの破天荒なユーモアワールド。ほっとするなあ、こういう人。

カジュアルフライデーのセンスを競う部長と課長(ちょいな人々)

 隣の庭木を平気で剪定してしまう主婦(ガーデンウォーズ)

 手に職をつければ、うだつがあがると思った占い師(占い師の悪運)

 学校で、職場で、そして水槽でも(?)サバイバルするいじめられっ子(いじめられ電話相談)

 ペットを愛するだけでは足りない飼い主たち(犬猫語完全翻訳機)

 人間関係に疲れ切っている女子高生(正直メール)

 阪神の試合スケジュールにデートが左右されるカップル(くたばれ、タイガース)>

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「マスク」

偏読老人の読書ノート
03 /27 2024

読書の楽しみのひとつに、昔夢中になって読んだ本を取り出して、もう一度読み直してみるということがある。すると、一度読んだはずなのにすっかり忘れているのか、あるいは読み飛ばしていたのかは定かでないが、初めて目にする文章に出会うことがある。書かれてあることが変わっているわけではないので、多分読み手である私の興味の在り処が変わったからそういう現象が起きるのであろう。そしてそういう場合は「なるほど、そういうことか」といった類の新しい発見というおまけがついてくることが多い。 では、全ての本にそれは言えることかというと、そんなことはなく、そういう得をしたと思う経験に出会えるのは、自分の思い入れが激しかった本に限るといっても言い過ぎではないと思う。人はその思い入れの深さによって自分を知り、他人を知ってきたのだ。そして、もうひとつ私が読書の楽しみにしているのは、自分の考えていることをほぼ忠実に代弁してくれているような文章に出会うことである。そんなときはそれが書かれている本をひしと抱しめたくなってしまう。ただ、そういう本は限られていて、いわゆる「お気に入りの作家」の本であることが多い。だから「偏読」がやめられないのだ。

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「マスク」(堂場瞬一)は、メキシコのプロレスの歴史を辿りながら、家族を捨ててメキシコで覆面プロレスラーとして活躍し、病死した父親の生き様と、残された子供である主人公の心の葛藤を描いた物語。ラスト近く主人公の独白。

「私は親父の人生をたどることはできる。しかし代わりに生きることはできない。それでいいのだ、と思う。たぶん私は、ずっと見えなかった親父の影に縛られていたのだ。今、その縛めは解け、私の前には、何もない、真っ白な道が遠くへ続いている」

こういう前向きな終わり方が嫌いではない。


<スポーツジャーナリストの水野は、家族を捨てたプロレスラーの父が死んだと聞き、メキシコの町セントロヘに向かう。太陽のように崇められた人気仮面レスラー「エル・ソル」とは、どんな男だったのか。プロレスが唯一の娯楽という貧しい街で、孤児たちを可愛がったという父。なぜ、彼は私を捨てたのか――。街で暮らしながら、関係者の証言を集めていく水野が知った父の実像とは……。熱血青春小説>

「色ざんげ」

偏読老人の読書ノート
03 /26 2024

「ねえねえ、米原万里って知ってる?」  

漫才やってる?  

「違う、それ、海原万里っしょ。」  

じゃあ知らない。  

「面白いんだよ、この本。」  

ふ~ん  

「お父さんがさあ、共産党の偉い人でね、この人ロシア・・・・、ねぇ、どうしてそうやって人の話聞かない? 」

聞いたって読む気ないもん  

「分った、もう何も教えてあげない。」  

だって知らないし興味ないもん。  

間。  

「あんたさぁ、この頃忘れっぽくなったの気がついてる?」 

わかんない。  

「あんたさぁ、昔のことは覚えてるけど、最近のことよく忘れるっしょ。」  

そんなことないよ、何でも聞いてみぃ。  

「絶対おかしいよ、病院に行っといで。」

だから何忘れたってさぁ、言ってみればいいっしょ。  

「いっぱいありすぎてすぐ言えない」


これ、つい先刻までのうちの奥さんと私の会話である。たまに、暗算させられることがある。それも三桁までの数字を。多分四桁までいくと、自分も計算するのが面倒だからではないかと私は睨んでいる。うちの奥さんに言わせれば、頭の良い人は頑固なのだそうだ。他人が馬鹿に見えてしょうがないから自然とそうなるのだそうである。論理に少し飛躍があるのではないかと私は思っているのだが、そんなことでも言おうものなら、「馬鹿にはわかんないのよ、そんな簡単なことが」といなされてしまう。悪い人ではないのだが、「頑固」な人なのだ。ただ私の長所はその「頑固」さをすぐ忘れることだったりするから、ちょっぴりややこしくなるのだが。

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 「色ざんげ」(宇野千代)の著者あとがきの冒頭には「この作品は私の書いたものの中で、一番面白いものである」という惹句が書かれている。続いて――


 「昭和のはじめ、フランスから帰ってきたばかりの青児(東郷)は、日本の女が珍しくて、高尾、もと子、つゆ子と呼ぶ三人の女を、それぞれ違った対応の仕方をもって、何とも形容することのできない、誠実な心を尽くして愛した、その経緯を物語ったものである。  

私が東郷青児と一緒にいたのは五十年も昔(本書のあとがきを書いた日付は5911月)のことである。私は毎日のように青児のあとを追い、『ねえ、それからどうしたのよ。それからどうしたのか話してよ』と言っては東郷から話を聞くと。その話をもう一ぺん、自分の頭の中で考え直して、それを書きとめておいたものであった」


「何とも形容することのできない」というのが男女の間の心の機微なのだろうが、東郷という人は、観念より感性の人だったのだと思う。本書で展開される物語より、宇野千代さんが「ねえ、それからどうしたのよ」としつこく聞いて東郷のあとを追っている姿を想像すると、ついつい笑みがこぼれてしまう。可愛い人だったんだなあ、宇野さん。

「中原の虹」

偏読老人の読書ノート
03 /25 2024

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 「中原の虹」は「蒼穹の昴」の続編。清朝滅亡後、皇帝の座を狙う袁世凱と東北で台頭してきた馬賊張作霖を中心に描いた中国歴史小説。


 <「汝、満洲の王者たれ」予言を受けた親も家もなき青年、張作霖(チャンヅオリ)。命を示す龍玉を手に入れ、馬賊の長として頭角を現してゆく。馬と拳銃の腕前を買われて張作霖の馬賊に加わった李春雷(リイチュンレイ)は、貧しさゆえに家族を捨てた過去を持つ。栄華を誇った清王朝に落日が迫り、新たなる英雄たちの壮大な物語が始まる。(1)  

半世紀にわたり、落日の清王朝を1人で支えた西太后(シータイホウ)が人生の幕を閉じようとするころ、張作霖(チャンヅオリン)や袁世凱(ユアンシイカイ)は着々と力を蓄えていた。死期を悟った西太后が考え抜いて出した結論は、自らの手で王朝を滅ぼすということだった。次の皇帝として指名したのは、わずか3歳の溥儀(プーイー)。その悲壮な決意を前に、春児(チュンル)は、そして光緒帝は――。(2

大いなる母・西太后(シータイホウ)を喪い、清王朝の混迷は極まる。国内の革命勢力の蜂起と諸外国の圧力に対処するため、一度は追放された袁世凱(ユアンシイカイ)が北京に呼び戻される。一方、満洲を支配する張作霖(チャンヅォリン)は有能なブレーン・王永江(ワンヨンジャン)を得て、名実ともに「東北王(トンペイワン)」となる。幼き皇帝溥儀(プーイー)に襲い掛かる革命の嵐の中、ついに清朝は滅亡する。(3

新生中華民国に颯爽と現れたカリスマ指導者・宋教仁(ソンジァオレン)。しかし暗殺者の手により時代は再び混乱し、戊戌(ぼじゅつ)の政変後日本に亡命中の梁文秀(リアンウエンシウ)の帰国を望む声が高まる。極貧の中で生き別れた最後の宦官・春児(チュンル)と馬賊の雄・春雷(チュンレイ)はついに再会を果たす。そして龍玉を持つ真の覇者は長城を越える! 魂を揺さぶる歴史冒険小説、堂々完結。(4

「蒼穹の昴」

偏読老人の読書ノート
03 /24 2024

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「蒼穹の昴」(浅田次郎)

清朝末期を舞台にした権力闘争を描きながらも根っこのところでは、愛がテーマだ。中興の祖乾隆帝の「愛――それは何だ」という問いから始まって、西太后の栄楽に対する、李将軍の西太后への、玲玲の文秀への一途な愛の物語だ。

 <汝は必ずや、あまねく天下の財宝を手中に収むるであろう――中国清朝末期、貧しき糞拾いの少年・春児(チュンル)は、占い師の予言を信じ、科挙の試験を受ける幼なじみの兄貴分・文秀(ウェンシウ)に従って都へ上った。都で袂を分かち、それぞれの志を胸に歩み始めた2人を待ち受ける宿命の覇道。万人の魂をうつベストセラー大作!
 「もう引き返すことはできない。春児は荷台に仰向いたまま唇を噛んだ。満月に照らし上げられた夜空は明るく、星は少なかった。『昴はどこにあるの――』誰に訊ねるともなく、春児は口ずさんだ。声はシャボンのような形になって浮き上がり、夜空に吸いこまれて行った。途方に昏(く)れ、荒野にただひとり寝転んでいるような気分だった。『あまた星々を統べる、昴の星か……さて、どこにあるものやら』老人は放心した春児を宥(なだ)めるように、静かに胡弓を弾き、細い、消え入りそうな声で唄った。――(本文より)(1)

官吏となり政治の中枢へと進んだ文秀(ウェンシウ)。一方の春児(チュンル)は、宦官として後宮へ仕官する機会を待ちながら、鍛錬の日々を過ごしていた。この時、大清国に君臨していた西太后(シータイホウ)は、観劇と飽食とに明けくれながらも、人知れず国の行く末を憂えていた。権力を巡る人々の思いは、やがて紫禁城内に守旧派と改革派の対立を呼ぶ。(2

落日の清国分割を狙う列強諸外国に、勇将・李鴻章(リイホンチャン)が知略をもって立ち向かう。だが、かつて栄華を誇った王朝の崩壊は誰の目にも明らかだった。権力闘争の渦巻く王宮で恐るべき暗殺計画が実行に移され、西太后(シータイホウ)の側近となった春児(チュンル)と、改革派の俊英・文秀(ウェンシウ)は、互いの立場を違(たが)えたまま時代の激流に飲み込まれる。(3

人間の力をもってしても変えられぬ宿命など、あってたまるものか――紫禁城に渦巻く権力への野望、憂国の熱き想いはついに臨界点を超えた。天下を覆さんとする策謀が、春児(チュンル)を、文秀(ウェンシウ)を、そして中華4億の命すべてを翻弄する。この道の行方を知るものは、天命のみしるし龍玉のみ。感動巨編ここに完結!(4)>

やまG3

 すぐ忘れてしまうので、読んだ本や思いついたことをメモ代わりに書いています。

 あちこちに顔を出しますが悪意はありませんので、どうかお見逃しください。